(6) に書かれていたように、昭和15年(1940年)7月16日には、杉原によるユダヤ人へのビザ発給は既に行われていましたが、これは決して順調に進められたわけではありませんでした。 (7) は、この直後の7月28日に杉原より本国の外務省に宛てて出された電報で、その末尾には、日本通過ビザの発給を求めて連日100名ほどのユダヤ人が領事館に詰め掛けている、とあります (8)。しかし、実は、このようにビザ発給を求めて領事館にやって来るユダヤ人の多くは、規則に従えばビザの発給が認められない人々でした。この規則というのは、昭和13年(1938年)10月7日に外務大臣から各地の在外公館に宛てて発せられたもので、日本通過ビザの発給が認められるユダヤ人の資格として、「避難先の国の入国許可を得ていること」や「避難先の国までの旅費を持っていること」などが定められていました。(レファレンスコード:B04013205200 民族問題関係雑件/猶太人問題 第四巻 分割2 77画像目~80画像目)
本国はあくまでこの規則に従っていたため、杉原に対して、資格を持たないユダヤ人へのビザ発給の許可を出すことは最後までありませんでした。それでも杉原は、独自の判断で発給を続けたのです。こうして発給された日本通過ビザによって日本に渡ったユダヤ人の中には、先ほど見たように、避難先の国の入国許可を得ていないために、結果として日本で足止めとならざるを得ない人々も多かったでしょう。しかし、命の危険が迫るヨーロッパから脱出させることができたことは、まさに彼らの命を救ったことにほかなりませんでした。ソ連への併合にともない、杉原のいたリトアニアでは各国の在外公館が相次いで閉鎖されていきました。日本領事館もまた閉鎖することを求められ、杉原もこの地を離れなければなりませんでしたが、それでも杉原は最後までビザの発給を続けたと言われています。