杉原サバイバーの命のルート

ポーランド→リトアニア→ウラジオストク→敦賀→神戸/横浜→米国他

ドイツ軍の電撃作戦でフランスを始めデンマーク、ベルギー、オランダなどが占領され、イギリスも本土上陸の脅威にさらされます。ポーランドに居たユダヤ人たちは、中立国のリトアニアに逃げ込んでいました。しかし、彼らはソ連軍がリトアニアに進駐し、併合すると国外に出られなくなり、ナチスから逃れえたとしてもシベリア送りが待っています。もう、彼らはリトアニアに留まることができず、日本の通過ビザを発給できるカウナスの日本領事館を目指しました。

1940(昭和15)年7月18日木曜日の早朝、リトアニアのカウナスにある日本領事館前に大勢のユダヤ人難民が押しかけました。杉原領事代理は群衆から代表者5名を選ばせて用件を聞いたところ、日本通過のビザ発給を求めてきたことがわかりました。しかし、杉原は小人数であれば、自分の裁量で出せるが、大勢となると本国の許可が必要と外務省に判断を求めますが、返事は「NO」でした。彼は自分自身や家族への危険、訓令違反の処分も覚悟してビザ発給を決断します。

カウナスでやっとビザを手に入れた彼らは、その後も過酷な運命に翻弄されます。シベリア鉄道でウラジオストクを目指す途中の駅では、停車するたびにソ連の秘密警察が乗り込み貴金属や時計などを奪ったり、何人もの青年が理由もなくシベリアへ強制労働に連行されたりしました。死ぬような思いでウラジオストクに到着して、日本へ向け連絡船に乗るときには、ユダヤ人難民の大半は所持金をはじめ金目のものはほとんど持っていないという状況でした。

敦賀に上陸したユダヤ人難民たちは、日本で唯一のユダヤ人組織の「神戸ユダヤ人協会」を目指しました。彼らの滞在した神戸などでの生活は、ヨーロッパやシベリアでの逃避行に比べれば大変快適で平和でした。しかし、彼らの持っているビザは、あくまでも日本通過ビザであって長期滞在が許されませんでした。そして、彼らは、それぞれ神戸や横浜からまだ見ぬ安住の地を目指してあわただしく船出をしました。

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